《児童文学論》第十章 ファンタジー | ||||||||||||||||||
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![]() しかし、ファンタジーの部門に属する本が、文学のなかに永久的な位置をしめるかどうかを決定するのは、想像力だけではなく、ほかにもいくつかの要件がある。たとえば、作者の人生経験や表現力などが、それである。しかし、作者が、ファンタジーを書こうと志したからには、かれがどの程度に独創的な想像力をもっているかということが、私たちにとっては、やはり最大の関心事になってくる。 独創的な想像力というものは、ただ、たんにものごとを考案する才があるということではない。抽象の世界から、いのちを創りだす、あの力なのである。それは、見えざるもののおくそこまではいりこみ、凡人にはのぞき得ない、神秘な場所にかくされているものを、光のさすところにとりだし、凡人たちにもはっきり──あるいはある程度──理解できるようにみせてくれるものである。おそらく、詩人をのぞいて、ファンタジーの作家ほど、他のどの部門の作家にもまして、表現しがたいものとたたかわなければならない人たちはいないだろう。 かれらは、それぞれの能力に応じて、テーマとなるアイデアを心によびおこし、それに象徴や比喩や夢の衣をきせることができるのである。作家の才能の程度は、さまざまであって、上は、独自・独創の表現を見いだしたルイス・キャロルや、「あの世的」な空想の持ち主ジョージ・マクドナルドのような人たちから、下は、当人たちは純粋のファンタジーと思いちがえているものの、ただの思いっきやっくり物の作品を書いているというような作家たちまでがある。…………こう考えてくる時、私たちは、未熟な作家とか、または、真のファンタジーを書くには非常にすぐれた才能が必要であることに気づかない作家たちは、ファンタジーを書いてはならないという結論にたどりつく。とはいっても、どのファンタジーの本も、『ふしぎの国のアリス』ほどの作品であり得るわけはない。しかし、もしその作品が、文学としてまじめに考慮されるためには、そのなかに『アリス』や、そのほかのりっぱなファンタジーに見いだされる要素を、いくつかもっていなければならない。 ファンタジーのなかには、よく書かれていて、単純ではあるけれど純粋な喜びを与えてくれるもの、読者を楽しませ、陽気なユーモアを味わわせてくれるのがその長所である、というような作品が、いくつかある。おもちゃの動物の心の生活にはいりこんでいったにA‧A・ミルンの想像力、メアリー・ポピンズのもつ奇抜さと道徳的な律義さ、人間よりも動物をこのんで、かれらと生活をともにする、心のあたたかいドリトル先生、「浮き島」に難破する人形のドール一家の災難、ポッパーさんとペンギンの機略にとんだ冒険、このような作品は、みな、たしかに私たちを楽しませてくれる。これらの本は、それぞれに力と価値をそなえている。もっとも、力とか価値とかいうことばは、これらの本の陽気な楽しさや単純さや魅力について述べ、その特質を語るには、重すぎるものかもしれないが。…… ![]() ……ファンタジーは、ほかの種類のフィクションとおなじく、まずストーリーをもっていなければならない。ファンタジーは、物語に出てくる登場人物が、人間であろうと、超自然のものであろうと、動物であろうと、おもちゃであろうと、そのつくりだされた主人公たちにたいする私たちの興味と関心をかきたててくれるものでなければならない。かきたてるような方法でえがきだしたものでなければならない。サスペンスは、しだいにもりあがってクライマックスにのぼりつめ、ストーリーは' なっとくのゆく必然性をもって結末に導かれなければならない。…… ……ファンタジーの特質には、それ自身の法則、しきたりがそなわっていて、もし私たちが、正しい評価の基準をもってそれに接するなら、十分なっとくがゆき、理解できるものなのである。子どもが、なぜファンタジーを容易に受け入れるかといえば、子どもには、想像力と驚異の念がそなわっているからである。あらゆる子どもが共通にもっている、この特質を失ってしまったおとなは、その実生活とはるかにかけはなれた、純粋に空想的な内容の作品を、まじめに判断するようにといわれると、しばしば途方にくれる。 このファンタジーという異なった世界に、ゆったりとした気分ではいりこむには、おとなは、まず、一つの気持のもちかたを発見しなければならない。E.M.・フォースターは『小説の諸相』のなかで、ファンタジーについて興味ある意見をのべている。かれはこういっている。「いつの場合でも、いちばんたやすくフイクションの一つの部門を定義する方法は、そのフィクションが、読者にどんなものを要求するかを考えてみることである。…… ということは、私たちが、ふつうのストーリーを読む時の心がまえ以上に、何か──つまり第六感のようなものをもっことを、ファンタジーは要求するのである。子どもはみな、この第六感をもっている。が、たいていのおとなたちは、子どもという衣をぬぎすてると同時に、第六感もおいてきてしまう。キップリングの『プックが丘のパック』のなかの「ディムチャーチの夜の逃亡」という章をみると、この第六感は、妖精たちがー人間の友だちに残していった贈り物だということを暗示した個所がある。…… ……ほかの者よりも深く見とおす力をもっことができるということだった。この何かもう少しよけいなもの、ほかの人たちよりも、もう少しふかく石の壁を見とおす力をもつには、多くの人がしたがらないことをしなければならない。つまり、それを得るためには、読者は、コールリッジが「みずから進んで不信の念を中断する」とよんでいることをしなければならない。ストーリーのなかにファンタジーがあるということは、多くの人たちにとっては、理解を妨げる一つの障害となっている。この人びとは、現実がしめだされているという前提を、自分たちの知性は受け入れることができないと考える。しかし、子どものために書かれた本のうちでも、おそらく最も微妙で、深いアイデアが見いだされるのは、ファンタジーの作品のなかにおいてなのである。ファンタジーを理解するのに必要なのは、著者のいおうとしていることに、進んで共感の耳を傾けるという態度だけなのである。けるという態度だけなのである。著者の創造力がどんなに大きく、または、本の内容がどんなに知的なものであろうと、私たちに耳をかそうという気持がないならば、少しの楽しみも生まれてこないのは、ほかの種類の本を読む時と、まったくおなじであろう。 『ふしぎの国のアリス』を例にあげて、考えてみよう。「何かおまけ」にはらって読んだ人びとに一生を通じて、これほど「楽しみの配当」をたっぷりあたえてくれたファンタジーの本は、ほかにはない。……『ふしぎの国のアリス』を不注意に読んだり、ざっと読みとばしたりする場合は、それこそ、半分忘れてしまった夢のような、脈絡も、きちんとした形もない、たくさんの奇妙な出来事があったという、混乱した印象しかのこらないだろう。しかし、注意を集中してこの本を読み、私たちの身がらをルイス・キャロルにまかした場合、はじめて私たちは、いままで多くの人たちがアリスのなかに見いだして楽しんできた、消えることのない喜びを発見できるのである。そして、また、日常でも、文学の上でも、あれほどたびたび『アリス』からのことばが引弔されるのも、もっともなことだと、うなずけるのである。…… ![]() |
回《奇幻介紹》 |