《児童文学論》第十章 ファンタジー
著者:Lillian H. Smith
オリジナル書名:The Unreluctant Years: A Critical Approach to Children's Literature
日本出版社:岩波書店, 1964
中国語翻訳者:林桐
最初に公開された:〈國語日報〉民國64年3月23日 兒童文學第一五七期
オリジナル比較:Chapter Ten: Fantasy
中国語比較:第十章 ファンタジー
光学文字認識:誠華OCR
 
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    たとえば、ある作家が、ルイス・キャロルやジョージ・マクドナルドがやったように、夢物語の型を使うとしても' その作家は、それを自分で考え、自分流に空想したのであり、したがってその夢をちがったやりかたで表現するのである。

    ファンタジーには、夢物語以外の型もある。そのなかでいちばん重要なものは、遍歴型と、自然界を象徴的に表現した型だろう。時には、二つか、それ以上の型がまじりあって吏われ、私たちは、二重、または三重の糸をたどることになり、するとその型はたいへん複雑になる。

    例として、W・H・ハドソンの『夢を追う子』をとりあげて考えてみよう。作者が用いている型は、遍歴である。しかし、この本すじの糸には、もっとほかの型もひそかに織りこまれてはいないだろうか。これは、蜃気楼を追ってゆき、それを見つけようとして迷子になるマーティンという少年の物語である。かれは、平原や森林や山の神秘を探検し、ついに、海に出て、その放浪をおえる。道々、マーティンの出会う経験のなかには、夢のようなおぼろさと、かれの心の成長の充実感とが、一体にとけこんでいる。ハドソンの語るこの物語は寓話であって、その根本のテーマは、けっして到達し得ないもの、われわれのすぐ目の前にありながら、けっして手にとることのできない美にたいする永遠の探求である。
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    ことによると、物語の底をながれている、このハドソンの人生哲学は、マーティンの物語を読む子どもたちにはつかみえないかもしれない。子どもは、胸をもえあがらせながら、マーティンの冒険に没入していった時でも、マーティンのように世界でたったひ語の根底のアイデアは、崇高な愛と信頼が信条となっている人生観の根本の理念を、子どもの目でみてつかんだところにある。すべての偉大な本がそうであるように、この本のおくにかくされている精神は、いつもつぎにくる世代に語りかけるものをもち、また、驚異を感ずることのできる子どもなら、どの子どもにも語りかけるものをもっている……

    ……なるほど、マーティンは蜃気楼を追っていった。しかし、私たちもみ な、幻影を追っているのである。そして、マーティンの物語は、すべての人間の経験を 語っているのだということを私たちに感じさせ' この世のふしぎなもの、美しいものへ のあこがれを、私たちのなかによびおこすのである……

    ……さて、第三の型になると、ケネス・グレーアムが、自然界の象徴的表現ということについて、いつの時代にも通じる名解説を与えてくれる。シオドア・ローズヴェルトにだした手紙のなかで、ケネス・グレーアムは、『たのしい川べ』を、「もっとも単純な生きものが、かれらの生のなかで味わう、最も単純な喜びの表現」であるといっている。また、かれは、「生きること、日光、流れる水、森、ほこりっぽい道、冬の炉ばたの本」であるともいっている。

    この本のことを考える時、まず心にうかんでくるのは、ほこりっぽい道に坐りこんだヒキガエルが、一種の夢幻境にはいって、「プー・プー!」と口ばしっている光景かもしれない。この光景は、新しい経験をした時の喜びを思いださせるのであるが、それがこの本では、一種独得のゆたかで、啓示的で、おもしろみのある!ただし、おかしいのではなく!ユーモアをもって語られている。あるいは、また、モグラの「なつかしのわが家」の前でキャロルを歌う野ネズミの姿を思いだす人もあろうし、友情のありがたさと真のもてなしの意味を知らせてくれる、「からだをっつむ光とあたたかさ」にみちた、親切もののアナグマの家を思いだす人もあるだろう。しかし、なかでも、もっとも重要に思える光景は、モグラと川ネズミが、遠いアシ笛の音によびよせられて、川上へこぎのぼる時、夜あけの光とともに、そよぐアシの葉のささやきを伴奏として、川岸にくりひろげられる野外劇であろう。この場面は、グレーアムが自然界を通して見た宇宙観を、どの光景にもまさって、私たちに示してくれる。

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    私たちのほとんどが、われわれをとりまく自然界の美しさやふしぎさを十分に気づいてはいない。ケネス・グレーアムのつばさあることばにより、私たちの心は高揚し、そこで私たちは、かれの鋭敏な感覚を通して、私たちの目に映ずる物の背後にある意味を、より大きくくみとることができるようになる。モグラやネズミや、ヒキガエルやアナグマや、その他の動物たちは、ただたんに動物と人間の属性をまぜあわせたものではない。かれらはいちだんとふかいヒューマニティーを私たちの胸によびおこしてくれるのだが、それはまた、生きものの世界にあっては普遍的、根本的なものであり、私たちと自然界との密接なつながりをも示してくれるのである。

    『たのしい川べ』を読む時、私たちは、自然!本能が強く働いている世界!の素朴さと美しさにたいして鋭い感受性をもつグレーアムの心の高揚を感じることになるので、私たち自身も感動し、知覚をとぎすまさないわけにゆかない……

    ……ファンタジーでは、型の場合と同様、おなじような題材がくりかえされることがある。しかし、あるファンタジーの本を価値づけるのは、題材や型ではない。価値は、その作家のクリエイティヴな想像力と、その想像をいかに独自の方法で表現するか、また、かれの独創的なテーマをいかに劇的な出来事のなかにとけこませるか、またファンタジーの架空な世界に、いかにたくみに如実さと現実性を与えるかにかかっている。

    世の中には、いつもファンタジーをこのまない人びとがいるものである。これは、けっして、その人の文学的なこのみのよしあしを反映するものでないことは、オリーヴがきらいでも、ほかの食物を楽しむには、少しもさしつかえないのと同様である。しかし、ファンタジーをきらうことは、すぐれた作品によって、とりわけゆたかにされている文学のこの分野から得られる喜びをしめだすことになる。そして、ファンタジーは ほかのどの分步にもまして、個々人の鑑賞とこのみによって、その楽しみを大きくすることのできる文学形式なのである。

    こののち二十世紀たって……人びとがまだ『ふしぎの国のアリス』を読んで、笑ったり、声をあげたりしているとしても、私は、すこしもふしぎとは思わない。寺というものに打ちほろぼされないものは、あまり多くはないが、その多くないものの一つに、すぐれたファンタジーがある。そして、すぐれたファンタジーよ、いっも、子どもたちの特別貴重な財産なのである。

 

回《奇幻介紹》